◎「神より上になる」とは、自分の働き、自分の才能、自分の信心という思いがあること。信心をさせて頂いて、今月今日が有り難うなってくるとは、どのような働きが出来たにしても、「神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。神様のおかげで出けたんだ」と。その実感が強うなってくる所から、いよいよ強ーい喜び、深ーい有難さというものが頂けるのです。
%U六十一節の「神より上になるとは思うな」を中心にしての教学。
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昭和四十三年七月五日 朝の御理解
X御理解第六十一節
信心をさせて頂いて、今月今日、嬉しゅう、楽しゅう過させて頂くというのが信心の願いじゃなからなければならんですね。神様の願いもそこにある。この「嬉しい、楽しい」という心で日々御用させて頂くという事がそのまま神様の御用につながるのです。
%U同時にこの御教えを頂いて、段々わからせて頂くのですけれども、ハァここが頂きどころだなというところが幾らもございますよね。ここをわからせる為に、ここのところが強調してある、といったような感じがいたします。特に只今申します「御理解六十一節」など、どこが大事なところかわからない程にみな大事なところばっかりですけど。今日はねその六十一節の一番最後のところを頂きたいと思うのです。
%U「神になりても、神より上になるとは思うな」と。ここのところが、だいたい六十一節のいわば決め手ではないかと思うですね。私ども、ここのところを迂闊にしておったと思うのです。それでまあ初めから読んでみます。
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。」と。ここまでは、ほんとに何回も何回も頂きましたし、ほんとにこの通りですよね。だから、この通りのところを信心の、私どもがおかげを頂いて、その有難いという心を、「神心となりて、人に丁寧に話をしていくのが、真の道をふんでゆくのぞ」と。こうはっきり真の道をふんでゆくということは、こういうことなんだと教えておられますよのね。
%U「金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ」と、ね。神様へのお礼というのは、これが第一なんだ。自分がまずおかげを受けて、そして、金光大神が教えて下さったことによっておかげを受けた、そのことを人に伝えて、しかも、それが、その信者が、また真の信心をさせて頂くようになる。それが神様への第一のお礼ぞ、ということになる、ね。
%Uところがです、あの信者は私が導いたと。このへんからが間違うてくるわけですよね。あれは私が導いた信者と。ここから間違うてくる。
「神になりても、神より上になるとは思うな」ということはね、私どもが、昔は信心のひとつの段階といったようなものを教祖はいろいろと、神号をもって呼んでおられたんですね。金子大明神とか、金光大権現とか、または金子明神とか、ね。金光大神といったような、段々信心が進んでまいりますと、信心の格というものがね、神格をもってそういう風に表現された。
ところが、それはお上から差し止められるような事態になりましてね、以来はそういう、例えば、神格を受けられた方が沢山ございましょうけれども、そういう風に金光大神とか、金光権現様とかね金光明神様とかいった呼び方をしなくなったんです、ね。ですから、そういうような意味あいだけでは、なかろうと思うですね。御神格を受けておるということは、だから「神になりても」ということはね、ここでは、信心が段々進んでいく自分の上の人、あの人より自分が信心が上といったような、そういうような意味の神。いうなら信心の先輩。でないと神より上になるとは思うな」というところが生きてこないのですよね。
ここんところを私共は、これはまだ大丈夫、こっちはまだ神様じゃなかっちゃから。まだ明神様でもなからなければ、金光大神でもないのだから。まあだ「神より上になるなんて思うことはなか」というようになるんです。ですからね、ここは、そういう意味での銘々が御神格を頂いておるといったような意味あいではない。人にお話しでも出来るようになれば、もうその人よりも上である。お導きでもできるようになれば、その人よりも神である、ね。この人が私の導きの親だというのは、やはり、それを神様のように思う。あの人のおかげで導いてもろうて、このように助かってきたということになる、ね。
%U「神より上になるとは思うな」と。これはどういうような事かと言うとですね、これは、ここん所を頂いてみると、お互いがね、みんな、その「神より上に」なっておるような事になっておるんですよ。自分達の思いの中にです、ね。まあ思い上がりとまでは思ってないけれども、やはりそれが思い上がり。
%V%U自分の信心というか、自分の働きというか、自分の才能というか、そういう自分の才能とか力とか、また自分の信心というようなものもがですね、自分の力によるもの、信心によるものと思うこと。これが既に「神より上」になっておるという思いになるのです。ですから、これを言いますとですね、私共がどのような事でも、どのような場合でも、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、と。私がこれだけ努力したから、私の顔で、私の知恵で、力で。もうその時にはですね、「神より上」になっておるのですよ。私がこう言うたから。もうこの時にはね、完全に「神より上」になっておる時です。
%V%Uここんところをですねえ、私は思うんですよねえ。してみたらね私共はもう、ちょいちょい再々「神より上」になっておる事になるです。厳密に自分の心というもの、私が働かなければ、私がしたから、私が言うた、と。まあ信心がわからん時なら、いざ知らずですけれども。信心がわからん時にはですね、やはり、それは仕方がない感じが致しますね。自分が一生懸命、例えば働いておる。神様からあと押しをして頂く。まあ少しばっかり神様から、自分のでけん所だけを神様からして貰うというような事を、よく言う人がいますけれども、それは知らんのですから仕方がない、ね。自分のでけんところ、自分の出来る所は自分がする。けども段々信心がわかってくると、自分がするということはあり得ない、信心から言うと。
%V%Uどのような切れる頭を持っておっても、どのような強い腕を持っておってもです、ね。神様のおかげで、その力が発揮出来るのである。神様のお引き回しを頂いたから、自分がお使い回しを頂いたものであるという事が本当なんです。ですから、そこの所がわかってから…。頭の良い人、腕の良い人、才気に満ち溢れておる人、そういうような人が、もう往々にして自分の知恵、力、または腕で、と思い違いをいたします。その思い違いがですね、おかげの大きな違いになってくるのです。
%V今月今日が本当に嬉しゅう、今月今日が有難い。有難いなあ、という日々がですね、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かん、という所からしか生まれてこんのです。
%U信心のこころのところを押し進めて行く以外にないのです。どんなに親切をもって、丁寧に人に話していって、そして、それが自分が真の道を踏んでいっておるにいたしましても、また、そのおかげを頂くことを人に伝えて、人に真の信心をさせるようになりましても、ね。本当に有難いことであり、嬉しいことであります、ね。人が助かっていくということですから。確かにそれが神様へのお礼にもなりますから、そのことがまた、輪に輪を書いたように、おかげがおかげの花を咲かせて実を穂らしていくのです。
%Uだから、そのへんまでは有難いでしょう。けども、それからが大事なのです。いわゆる、言うならば、神になる。その人よりも神になったわけです。これはお導きといったようなことではないですね、今日は。例えば、ひとつのお仕事ならお仕事でもそうです。けれども「神になりても、神より上になるとは思うな」というのは、さっきから私が申しますように、昔言われた神格といったようなもの、はあ自分ももう明神様の神格を頂いとる。自分はもう金光大神の神格を頂いとるかも知れん。そういう意味の、ここは神ではないと思う、ね。
%Tそういうお話しが、実際にありますですね。斎藤重右衛門ですが、金光大神を頂いておられた方。御神格を。片岡次郎四郎という方、それから、この斎藤という先生が教祖の時代に金光大神の御神格をうけておられる。今でもその教会の奥城に参りますと、金光大神という奥城ができておる。大変な御神格を御神徳を受けられた方らしいです。けれども、それこそ、当時ですね、教祖様の金光、金光町ですね、岡山あたりからどんどんお参りがあります。金光の町や備中を通り抜けてから、斎藤先生の、笠岡ですかね、笠岡の金光大神の所へお参りが多かったという時代がある。
%Tとにかく、打てば響くようなおかげを受けられたらしいですね。備中の金光大神の所では、人が評してですね、「備中の金光大神は麦飯金光大神」と言うたそうです。それから、「笠岡の金光大神は米の飯金光大神」と言うたと。という程にですね、いうなら、御利益という意味あいにおいては、華々しいおかげが現れたらしいですね。ですから、勿論お参りも多いわけですね。いわゆる、備中を通り抜けてから、笠岡の方へお参りをするというようなことだった。
%Tところが、ある日、笠岡の金光大神が信者を沢山お伴に連れてですね、自分は大名が乗るようなかごに乗って備中に、いわゆる金光様のもとにお礼参拝をされた。それこそ大名行列のようにあったそうです。沢山なお供えを車に積んでですね、沢山な信者がそのかごに従って、そして、御本部参拝したわけなんです、ね。その時に、金光大神が「こんな賑やかなことをして表通りを通るようなことをするな」「帰りは裏道を通って帰れ」と仰られたそうです。
%Tところがね、やはり俺の所の方が御比礼が立つから、備中の金光大神の所よりも力があるというような、ひとつの思い上りが、ね、笠岡の金光大神の心の中にあったわけですよね。金光様がなんかぶつぶつ言うてから、米の飯がたぎる時のようにですね、ぶつぶつ、何時もぶつぶつ言うてから、というような意味の事を言うておられたそうです。だから、恐らくぶつぶつ不平不足のような意味で、ぶつぶつ金光大神が注意をなさっておられたわけですね、笠岡の金光大神に。「そんな事じゃおかげを落とすぞ」という。その日もやはり、こういうような派手な事をしてきて、しかも、それが表通りを通って来るような事をせず、帰りには裏道を通って帰れ、と仰られたんですけれども、「そんなことがあるものか、表通りを堂々と通って行くのが神様への御比礼じゃ」「金光大神の道がこんなに有難いんだという事を、いわば知りする意味あいにおいてでも」と言うふうに感じいられたらしいですね。
%Tいわゆる、教祖様の仰らる事をむげにされた。ところが、途中でですね、町役人に捕まられ、いわゆる「お上をはばからないふるまいだ」と言うわけなんです、ね。とうとう牢屋に入れられなさって、それから随分永く牢獄生活をしておられます。勿論、それが非常に新たな、いわば金光大神の内容が非常に深められなさった事だけは間違いないです、ね。それから、また一段と人が助かるようになられたというのですれけどもですね、やはり、これは丁度ここん所が当てはまるようですね、この文字に出ておる「神より上になるとは思うな」という、ね。
%Vですから、今日私が言っておるのは、そういう意味ではありません。私共が、この六十一筋にでているようにおかげを受けて、金光大神が尽きぬおかげの話をして下さっておるのですから、その有難いお話を、それを人に伝える。人がそれを喜んで聞いて下さる。そして、その人が真の道を踏んでいくようになり、信心をするようになる。ほんとに有難い。ここまでは有難いですよね。
%Vけれども、それからがおかげを落とすもとがでけてくる、ね。私が導いたと。だから、今日はこの「私が導いた」という所をですね、私がした。私がおったからでけた、ね。これなんです、そして、いかにも神様にはね、神様にはすこうしばっかりお手伝いをしてもろうた様に思っておる。自分が中心に働いた様に思うておる。そして、神様から少しお手伝いをして頂いたように。だから、これはもう、神よりも完全に上になっておる。実を言うたら、私も一生懸命、おかげで働かせて頂きました。一生懸命頭をしぼらせて頂きました。腕も使わせて頂きました。けれども、それはどこまでも使わせて頂いた事である。神様に使うて頂いたのである。もう一から十までが「あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだ」という所からしかです、今日私が一番初めに申します「今月今日を有難う嬉しゅう」過ごせれるという様なものは生まれてこない、ね。
今日はもう、しっかり骨が折れた、と。ね、しっかりそのがま出したと、こう言うですけれども、ね。神様のおかげで働かせて頂いたんだ、と。はあ今日は神様、もう足腰が立たん様に御用にお使い回し頂いて有難うございました。という事になってくるんですよ。
そこん所に、あれ程に動かして頂いたにもかかわらず、あくる日はまた、ちゃんとしておかげが受けられるという時には、そういう気持ちが強い時です。これは私共でも感じます。こうやって御用奉仕させて頂いて、ね。自分が我力で座っておる時には、とにかく足が痛い。いつの間にか我力が出ているわけですよね。「あなたのおかげで」といった様なものが薄らいでおるもう言うならば「神より上になっておる」様な感じなんです。
%U今日は「神より上になるとは思うな」。一番最後の一口の所がね、実を言うたら大事なとこであると言うことなんです。ですから、この前半にありますような所を段々通らせて頂いて、ほんとに実意丁寧神信心をさせてもらい、そういう信心をです、自分もさせて頂き、人にもそれをさせていくという所に真の道を踏んでいく事にもなり、神へのお礼にもなるという、ね、おかげを頂かせてもろうて、ほんとにそういう様な事でも、神様のおかげを頂かなければなかったんだ、という事。神様のおかげで話しをさせて頂いた。あなたのおかげで。それを私が話したから、ね。私がこうしたから、こう言うたから、といったようなものがチラチラとのぞいてくる。もう既に神より上になった感じがチラチラ出てくるわけなんですね。
それが「今月今日ほんとに嬉しい、有難い」という一日になってこないのです。その心から湧いてくる「今月今日の有難さ」というものが、言わば、次のおかげの原動力、前進ともなる事は間違いのない事なのですから。どこまでも自分というものを無にした、ね。むなしゅうした信心。
いわゆる「あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだ」という。ここまで私は参って来た。私が自動車運転して、私が参って来た、というのではなくてね、お引き寄せを頂いて、という。神様にお引き寄せを頂いたんだと。お参りをさせて頂いたんだと。参ったのじゃない、参らせて頂いたんだと。心から只今お引き寄せ頂きました、という所にですね。神様へ通うだけでなくて、神様のまた、そのお返しがね、心の中に、お引き寄せを頂いたという事に対して、有難いものが湧いてくるんです。
その有難い、勿体ないという日々を過ごさせて頂く意味あいにおいてでも、ね。「神より上になるとは思うな」という所をひとつ、本気で頂いていきたい、ね。そして、もう一番有難い事はね、もうあなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだ、と。ね、一切すべてが。それは、どのように自分が知恵があっても、力があっても、ね。ひっくるめてです、あなたのおかげを頂かなければ、それを現す事ができないのだ、と。どんなに力が強いというても、なら腕の力が強いからというて、腕を一寸ケガしてご覧なさい、もうそれは力を強うする事は出来ないでしょう。どんなに五体が強健だから、強いからどういう力仕事でも出来る。私がしよったっちゃけども、なら中風にでもなってご覧なさい、もうさあ、紙物ひとつすらが持てないじゃないですか。
ですから、どのような働きが出来たにいたしましても、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かん。あなたのおかげで出けたんだ、と。そういう実感が強うなってくる、強うなってくる所から、ね。いよいよ強ーい喜び、深ーい有難さというものが頂けるのです。どうぞ。